ついに書いた。お手柔らかに。 Category:未選択 Date:2017年03月07日 最近、女子の生き方的なコラムによく出会うので、ちょっと思うところを書いておきたい。 小心者なので前置きしておくが、私は女性の社会進出や男女差別その他の差別について体系的に学んだことはないし、現状を正しく把握できているわけでもない。 よってここから先の文章は、いち専業主婦がカッとなって書いた穴だらけの稚拙な文章だということを念頭に読んでいただきたい。 「女性よ、寿司も指輪も自分で買おう」というやつとか。 「『主人』と『嫁』という呼び方をやめよう」というやつとか。 言いたいことは分かる。その通りだよなあ、って思う部分もある。 でもやっぱり、反抗してしまう部分が自分の中にあって。 男性を信じきって「働かない」のは危険だから自分で「稼ごう」、っていうのは、女性の問題を経済的な面でしか捉えていない感じがして、そういう意味では全然共感できなかった。 それが、女性というより人間として「他人を頼り切るのではなく、自分で自分の生活を充実させられるようにしよう」っていう話なら、素直に「刺さるな~」ってなったんだけど。 パートナーときちんと話し合って、私たち家族の収入はこうやって確保しよう、私はこれをやりたい、あなたはこれをやりたい、じゃあどうしようかって、ちゃんと気持ちを合わせた上で収入確保は男性の担当ってことになっているんだったら、それで何も問題ないと思う。 もちろん、論全体に漂う「男性は裏切るものだ」っていう前提に対する「そんなの悲しすぎるだろ」っていう(痛い目をみたことがない)私個人の感傷的な気持ちも、少なからず働いているのだけど。 あと、そもそも私が資本主義とか経済社会とかだけを前提として生き残り方を論ずることに激しく嫌悪感を示す人間だということもかなり影響してるとは思うけど。 それでもやっぱり、ちょっと視野が狭いというか、冷静じゃない気がする。 個別の問題を論ずるにしても、前提とするのはもっと客観的な、全体的な視点であって欲しいのだ。 冷静じゃないと言えば、差別の話。 「差別についてどう思うか?」と聞かれれば、「差別なんて無くすべきだと思う」と答える人が好ましいし、そうあるべきだと思うし、私自身もそうでありたいと思っている。 でも、差別の当事者ではない人が、年がら年中差別関連のニュースにばかり目を光らせてぎゃんぎゃん叫ぶのって、どういう心理なんだろうって思う。 叩きたいだけじゃないか?叩くことで自分は正義の存在であると思い込みたいだけじゃないか? 本当に差別の問題を解消したいなら、もっと冷静な目が必要だと思う。 差別を無くすためのエンジンが差別に対する怒りであるのは十分ありえることだしそれでも良いと思うけど、それをそのままぶつけたり喚いたりすることが何の解決になるのだろうか? 差別の当事者は、被害者として叫ぶ。それは当然のことだと思う。 でもそうじゃない人が同じように叫んでるだけでは何の意味もないだろう。と思う。 語弊がある表現しかできないから、書くのがちょっと躊躇われるのだが、 正直なところ、「差別に過敏ではない」ということこそが、差別しない人間になるための素質であり、もし仮にそういう人ばっかりだったら、差別はなくなる可能性もあるんじゃないかと思うのだ。 差別の問題を見て見ぬふりすべきだということではない。でも、差別とか平等とか、そういう概念に囚われていない人、「差別何それおいしいの?」くらいの人こそ、必要なんじゃないか。 言い換えると、差別する人も、差別に反対する人も、差別という概念に囚われすぎていて、すでにどちらも「問題を解決する冷静な視点」を持ちうる可能性が極めて低いんじゃないか、ということだ。 だからこそ当事者でない人は、冷静でなくてはならないのだ。 『主人』と『嫁』の話も、女性蔑視に反対する立場から出てきた考え方だと思うが、そう決めつけてその考え方を拡散することが、「問題を解決する冷静な視点」を持った人間を減らすことになりやしないかと怖くなった。 もちろん、「主人・嫁やめよう」の考え方に救われている人は少なからずいると思う。だが、問題を解決するにはずっと被害者の立場にいるだけでは駄目なのだ。 加害者、被害者、どちらでもない人、その全てを包括した視点をもって有効な解決策を考えなくてはいけないと思うのだ。 この問題で被害者となっているのは「妻をやっている女性(の一部)」だが、この「妻をやっている女性」の中には「主人・嫁やめよう」の考え方に賛同できない人も結構いるんじゃないかと思う。もちろん、数の問題ではない。どちらの考え方も存在するということだ。 女性の社会進出が進まないのは、そこに協力しない一部の女性たち自身がいるからだという文章を読んだことがある。 同じ女性の理解がないというのは、女性の社会進出にとっては確かに致命的なことだと思う。 でもだからといって、全ての女性が社会進出に積極的であるべきだということにはならないだろう。 必要なのは自由だ。とにかく、自由であるべきなのだ。 社会進出してもいいし、しなくてもいいはずなのだ。どちらか一方が正しいなんてことは、何の前提もない場合にはありえない。言い換えれば、どちらか一方が正しいと主張した瞬間に、その主張は特定の立場に縛られるのだ。私は、その前提や立場をとっぱらって、全てが自由であること、「正しい」ことなんて一つもないことだけが「正しい」と、少なくとも心の底ではみんなが分かっている、そういう状態が健全だと思うし、どうかそういう世界であってほしいと思うのだ。 例えば経済社会や技術社会の発展という前提に立てば、性別に関係なく優れた人材がそれらの社会で活躍すべきだ。つまり、女性は社会進出すべきだし、男性も社会進出すべきだ。乱暴な言い方をすると、女性も男性も、家庭など顧みないで社会進出すべきということだ。つまりこのことに差別の問題は関係なく、ただ単純に確率の問題として、非合理的な性差別などとっぱらってより多くの人材が社会に出てきたほうが良い人材が現れる確率が高いという、ただそれだけの話だということだ。 この、ゼロでフラットな状態を改めて認識することは、差別の歴史や現状を知ることと同じくらい重要だと思う。 差別の話をする人は、このことを忘れて欲しくないのだ。 差別を無くしたいなら、まず自分自身が、特定の立場に縛られず、フラットであってほしいと思うのだ。 …と、偉そうに語ったところで、こういうコラムにばっかり反応しちゃうのは、私が専業主婦だからで。 完全に、自分の立場に囚われているわけで。。。 ただ、経済社会で活躍する女性に対しては、純粋に「かっこいいなあ~」「私はこっちで頑張るので、あなたはそっちで頑張ってください!」っていう気持ち(と、「キャリアウーマンっていう肩書き羨ましいわあ、嫉妬するわあ」っていう醜い気持ち)だけで、否定する気持ちはかけらもない。 だから、そちらも否定しないでよ、と。そういうことです。 こういう、他者を否定するような考えを、話したり書いたりして示すことがそもそも私の大切にしている「ゼロでフラットな立場」に矛盾する行為である気がいつもしていて、話そうとしてはやめる、書いては消す、ということを繰り返してきたのですが。 まあ、ちょっと、こういうことも思ったんだってことを、自分の記録として残すという意味で、このひっそりとしたブログなら使ってもいいかなって思ってしまいました。 お付き合いいただきまして、ありがとうございました。 PR