「きらい」、って、きらいです。 Category:未選択 Date:2012年09月08日 何をみんなそんなに排他的になろうとするの? 別に全部を受け入れろとは言わないけれど。 その「きらい」は、どうしても出てこなくちゃいけなかった「きらい」なの? 「すき」に理由は無くてもいい。 でも、「きらい」はめいっぱい理由を考えて、 考え方を変えられそうなら、少しがんばってみて、 それでもやっぱり「きらい」なら、そこではじめて「きらい」と言う。 それは「きらいにならない」ということじゃない。 そのくらい「すき」という気持ちを大切にするってことだと思う。 ・・・なんか中学時代は友達がやけに排他的なヤツばっかりだったなと思って。 仲間意識の強い、一緒にいて楽しいヤツらではあったんですが。 という訳で、続きで嫌いな言葉の話。← あれが嫌、これが嫌、という話なので、気分を害されたくない方はご遠慮下さい。 私が言いたいのは「コミュ力」という言葉のことです。 私もよく使うんですけど、その使われ方が実はあんまり好きじゃないんです。 まずは、自分で自分のことを「『コミュ力』が低い」と言う場合。(私もその一人) 大半の人が、そう言っとけばコミュニケーションにおいて努力しなくても良くなると思ってるんじゃないかと。 それは間違いですよね。自分を貶めて努力しない理由を作るって、どうなの、と。 それから、他人のことを「『コミュ力』が低い」と言う場合。 その人とうまくコミュニケーションを取れないお前こそ「コミュ力」低いだろ、と。 歩み寄ろうともしない奴に「コミュ力」低いとか言われたくない訳です。 で、結局問題となるのは「コミュ力」という言葉の定義なんですが、 そこを突き詰めて考えるにはそれなりの調査と考察が必要になると思うので、 この場では私の愚痴レベルで終わらせておきたいと思います。 まぁこれは全部綺麗事で、実際「コミュ力」は便利な言葉ですし、 その意味をあまり深く問われないままに使われているケースがほとんどだと思うので、 「何かクソ真面目な奴がうるせーこと言ってるよ」って言われちゃえばそれまでなんですけども。 「コミュ力」って言葉について、よくよく考えずに使っている人は、 すこーしだけ考えてみて欲しいなと思うんです。 「『コミュ力』低いし・・・」って自分で言う人は、言う度に少しだけ、 寂しいような辛いような、傷ついたような気持ちになってはいないのか。 「あいつ『コミュ力』低いし」って他人に向かって言う人は、 その言葉が何をどんな風に解決してくれると思っているのか。 私は気になっているわけです。 口うるさいことを偉そうに書くことにためらいも感じたのですが、 まぁ個人ブログだし好きに書かせてもらおうかと。。。 私自身、まだまだ「コミュ力」という言葉については考えなくちゃいけないし、 私が理想とする使い方が出来ている訳でもありません。 誰か一緒に、「コミュ力」という言葉について考えてくれる人がいるといいなと祈りつつ。 この辺で終わりにします。 最後まで読んで頂き、ありがとうございました! PR